2003年7月2日(水) 眼鏡が無い、メガネガナイ |
ホントのことだ。つまり、不思議な気持ち。
朝着替えるとき、メガネをかけたままシャツを脱いだら、ちんぴょろすぽーんとどこかに飛んでいった挙句見つからなくなってしまった現実。十分近く遅刻と戦いながら探したものの見つからず、結局コンタクトを引っ張り出してきて仕事に向かったわけですが、「たまにはコンタクトで来てくださいよー」とか言ってたバイトの娘のリアクションがスゲー薄くてショックだったりとか。「テメー、もともとが社交辞令にしたって、もう少し返答の仕方があるだろうが」と思わざるをえないわけで。
ちなみに、結局メガネは、ケーブルとかしまってある紙袋に入ってました。どうでもいいオチ。
◆『百合姉妹』を読んでいて思ったこと。
俺は「百合」を萌えの延長でしか見られないわけですが、女の子はどうなんでしょう。男でいうところの、美しい友情と同位置なんでしょうか。でも、どうしたって性的なものが絡んでくる以上、それはきっと違う。異性への過剰な意識が、排除(百合)へ向かうか美化(やおい)へ向かうかというベクトルの差なのかなあ、とか取り留めのないことを思いながら読みました。
そんなわけで俺は「夏の繭」というマンガのスク水に萌え。エロゲオタ的思考。
◆何々をパクったキャラ。
別に誰それを擁護しようとしているわけでもなく、特定の誰かに倒して文句を言うわけでもないです。ただ、何とかで見たようなキャラとか、どれそれとそっくりなキャラとかいうのは、批判の文句としては的外れだなと。
物語のパターンは神話ですでに出尽くしていると、誰かが語っていましたが、そこから転じてキャラクタのパターンだって、もう今となっては組み合わせの違いだけでしょう。個性が同じで口調を変えただけ、もしくはその逆パターン。細かく分類すればいか様にも。それをあげつらってみても、「じゃあ、名作といわれたアレのアイツは?」、「元ネタの元ネタは?」となるわけで。問題なのは、たとえそれが劣化していたところで、劣化しているなりにあるキャラの存在意義ですから。無論それが面白くないのは論外。だからこそ、「どっかで見たキャラが出てる」の段階で思考停止してしまっては、物語を読むには値しないと思うのですがね。
まあ、俺としても、うまく隠せよとか、それはやりすぎだろ、とか思うところはあるのですが。 |
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